こんにちは、
コエトーレ代表の半沢健です。
写真ではタキシードを着てポーズを取っていますが、そう、僕はオペラ歌手でもあるのです。
このページでは、そんな僕の自己紹介をさせて頂きますね。
ただ 経歴を並べるだけでは
僕という人間が伝わりにくいと思いますので、
なぜ、「声と表現に特化した」職業を選択したのか、
その理由を、僕の生い立ちを交えて時系列にお話ししたいと思います。
まぁとにかく、僕は小さい頃から歌が大好きで、
物心付く前から歌っていました。
というのも、
実家にその記録が残っているんですね。
半沢家では新春の所信表明演説と称して、毎年元旦に
映写機のような大きな録音テープに録音するのがしきたりでした。
(この慣わしは、僕は大人になった今でも続いています。実家の両親も既に後期高齢者となって久しいですが、変わらず2022年まで毎年開催できることが奇跡だと思っています。)
今でも当時1歳か2歳くらいの僕が
「ケロヨンのうた」(当時のアニメのテーマソング)を
言葉足らずの声で歌っている記録が残っています。
僕は音に対して耳コピする聴力を既に持っていたのです。
そんなことを言うと音楽的に恵まれた環境かと思われがちなのですが、
父も母も音楽関係の仕事をしているわけではありませんでしたので
音楽に関してエリートだったわけではありません。
むしろ、両親ともに旧帝国大学の東北大学出身で勉強が出来る方だったので
周りには小中学校くらいまで学業についてエリート視されていましたね。
それでも、回りの友達に比べて歌が上手いことは皆知っていて、
小学校の学芸会では
「けんちゃんは歌うまいから『森のくまさん』4番のソロは決まりね!」
と、友だちの推薦をへて、誰ともなく指名を受けることもありました。
僕自身も歌うことは大好きでしたので、
このように言ってもらえて嬉しかったのを覚えています。
小学校5年生の出来事です。
当時は横浜に住んでいたのですが、
そこにとある合唱団がありました。
「横浜少年少女合唱団」という、数多くの演奏実績を持つ合唱団で
当時は小学校4年生・5年生しか受験資格がありませんでした。
当時の競争率も約5倍(!)と非常に入団の難しい合唱団だったのですが、
当時担任だった先生に「やってみないか?」と誘われ、
両親に相談して試しに入団試験を受けた所、
高い倍率を突破して合格してしまいました。
ただ、両親は勉強については教育熱心だったものの、
こういった芸術に関する興味はほとんどありませんでしたので
「やるだけやってみたら」という感じでした。
ですから、試験を突破して入団できた事について
一生懸命に状況を語ってもそれほど褒めてくれず、
話せば話すほど寂しい想いをしたのを覚えています。
(団の活動には何かとお金もかかるので、今なら親の心境が分かりますが…)
そんなこんなで、この横浜少年少女合唱団に入ってからは
定期演奏会をはじめとして、
横浜開港記念式典などの横浜市の公行事が行われる度に
団のメンバーとして本番で歌うという経験を数多くこなしました。
このころには、舞台上で自分自身を俯瞰するやり方や、
恐れや羞恥心を手放して、全身全霊で表現するコツを
すでにつかんでいました。
僕はハマった物事には一生懸命飽きもせずやり続ける性格なので、
やればやるほど先生に褒められるので嬉々として研鑚を積みました。
そして、同時に「両親から褒められないことの寂しさ」も味わっていました。
一般社会と家庭という社会との乖離感をどんどん受けてしまった。
(この乖離感が、後の僕のキャリアを一旦全て吹き飛ばす素となってしまいます)
そんな僕も無事に高校まで進学して、2年生になった時のある日。
人生の転機となる出来事が訪れました。
イタリアオペラの引っ越し公演というものが
当時の地元、横浜で開催される事を知ったんです。
これがまた特徴的な公演で、
当時こういったオペラの引っ越し公演というのは、
歌手だけが外国から日本にやってきて、舞台やオーケストラといった
他のスタッフはみんな日本側でやるものだったんです。
でも、そのオペラ公演は違っていたんですね。
歌手だけでなく、美術品や裏方の全スタッフを含めてイタリアからやって来ていたんです。
それが実家(横浜市保土ヶ谷区境木本町)から近場の神奈川県民ホールでやるというので
「せっかくだから…」と、
A席(2万円)のチケットを買って、オペラを観に行きました。
そして公演当日、
僕は本場のオペラ舞台を目のあたりにするのですが…
一言で言うなら、「大感動」しました。
もちろん目玉の演出や歌手なども素晴らしかったですが、
僕が一番目を奪われたのはそこではなかったんです。
演目はプッチーニ作曲の「ラ・ボエーム」という人気オペラで、有名なアリアもたくさんあり、今日まで全世界的に再演機会も多い作品でしたが、
僕が一番感動したのは、このボエームの名物「第2幕」で、
総勢200人くらいのメンバーが出演していたその公演の中で、
一人ひとりがパリのカフェや雑踏といったものを
鮮やかに表現していたんですね。
劇の名前のクレジットもないような役者さん・歌手さん達ひとりひとりの何気ない仕草に
パリの「生活感」がまさにその舞台で再現されていました。
まさに一人一人がプロフェッショナル!!!
それをみて僕は「これ、すごいなぁ!」と素直に感動し、
あんな仕事に携われたらいいなと思ったんです。
オペラという舞台に憧れたのは
その時の感動がきっかけでしたね。
また、当時はヴォイスコーチになりたいという思いは全くなかったのですが、
音楽に限らず、「教える」ことはとてもやり甲斐を感じており、また好きでした。
横浜市には、当時中学2年生が必須のアチーブメントテストという、
「これで高校の進路が決まる!」というような
9科目のペーパーテストがあったのですが(今でもあるのかな・・・)
何回模擬テストをやっても音楽が50点満点中0点に近いという
壊滅的な状況を改善してほしいという、友人の親御さんの要望により
友人の弟さんを試験対策のために教えました。
彼は少し変わった考えの持ち主で、自分自身が納得しないと
次のカリキュラムに絶対に進もうとはしませんでした。
ですから、彼に理解してもらうためにはどうしたらいいか、
必然的に色々な表現方法を用いて、
かみ砕いて教えるということを経験しました。
彼は、僕のヴォイスコーチという仕事の礎になってくれたのです。
そして、大学時代。
仲間とワイワイやりたい性格は変わりもせず、小学生時と同様に
音楽大学の声楽科学生のみが入団できる合唱団に所属し、
セミプロとして活動していました。
上級生の時には、パートリーダーとしての団員の取りまとめや、
音取りの訓練といった教育的役回りを引き受けて、
演奏行脚と称した何百という数の舞台本番をこなし、
さらに本番力を磨きました。
そんな僕ですので
大学卒業後はプロ合唱団の一員として音楽活動をと思っていました。
…が、現実は甘くありませんでした。
実は入りたかったプロ合唱団の試験を受けたのですが、
選考試験の一次試験であっと言う間に落ちてしまい、
一気に人生の目的と目標がなくなってしまったんです。
最初の挫折を経験した僕は、結果として
大学卒業後は演奏のプロとしてではなく
会社員という道を選びます。
ピアノ楽器メーカーの名門河合楽器の音楽教育事業部という部署で
働きはじめました。
仕事内容は簡単に言うと、最前線で活動する先生方のサポート役ですね。
上層部と前線のパイプ役として毎日頑張っていました。
そして河合楽器に就職して約8年。
正社員だった僕には定期的な人事異動がありました。
最初は教育や啓蒙普及的な内容中心だった仕事が、
次第に営業的なものに変わって行きました。
当時は完全な音楽バカな若造だったので、
営業というものに全く興味が沸かず
だんだん仕事についていけなくなりました。
周りのスタッフにもたくさん迷惑をかけました。
心身のバランスを崩し、自己表現も支離滅裂になっていきます。
僕の独自メソッド、音声表現プロセス的に言うと「パスを切った」状態、
つまり、身体で言うところの血流を自ら止める選択をしたのです。
思えば、歌手としての未練があったのかもしれません。
また、同時期に離婚も経験し、
精神的に非常に苦しく、どん底に落とされてしまったので
結果として、河合楽器を辞めることになったのです。
精神的に病んでいたのであろう、と今思えば感じるのもこの頃です。
それでも、
音楽という仕事には情熱がありましたので
河合楽器を辞めた後すぐに、
個人音楽教室の看板を掲げて生徒さんに音楽を教えていました。
ですが、当時は生徒さんが数人しかおらず、(こんな精神状態だったので当然といえば当然の人数なのですが・・・)
音楽教室でまともな収入を得ることが出来なかったので
派遣社員としてさまざまな仕事をしながら教室を続けていました。
(この選択が後々になって活きてくるのですから、人生本当にわかりませんね。)
最初は生徒さんも少ない状況が続き、
「本当にやっていけるのか…」と不安に駆られたこともあります。
自分の指導の形にこだわり続けたために、
熱血なものの柔軟性に欠け、場にふさわしくない厳しい言葉をかけて
長く通ってくれた生徒さんを一瞬で失ったこともあります。
それでも、お客様を集めるために地道に営業をかけたり
コンサートや交流会などに参加して、外に出て行って、
僕という人となりを知っていただく努力を続けた結果、
少しずつ生徒さんが増えて行きました。
とにかく、いらしていただいた生徒さんとの一期一会を大切にして、
どんな結果でも全て僕が受け止める覚悟で必死にお教えしました。
そうしていたら、当日派遣社員として勤めていた派遣元の会社から
派遣元の正社員として勤務しないか、とお誘いを受けました。
僕は自分の教室が継続できるのか心配だったので
正直に副業している旨を責任者に話したところ、
どちらも「数字という結果を出す」という条件で、
正社員をしながら先生業を続けていいことになりました。
中堅の人材派遣会社の営業・コーディネーター・採用コンサルタントとして
3000人以上の人たちと関わり、彼らの人生に違いを創る後押しをしました。
大手と同じことをしていたら中小は生き残れません。どうしたらいいか。
だから僕が担当するスタッフさんには、
経歴等を話す時間を自己PRタイムとみなしてお客様から目をかけていただけるよう、
徹底的に自分を「表現する」研修を僕自らが実施しました。
「人材派遣会社でここまでやる会社は始めてだ」と派遣スタッフさんに言われた回数は
数しれず、です。
ノウハウがたまると、会社内でITスクールのプロジェクトを立ち上げました。
代金を頂く、いわゆるセミナー講師デビューを果たしたのもこの頃です。
とにかく、他社にはないこだわりを徹底して追求し続けました。
そして僕が勤務してから、年商2.5億の現場は3年で7億になりました。
まだまだ人間として成長途上で未熟だった僕は、後先考えずに
革新的なアイディアを出しすぎて「物議」を醸すことも多かったのですが、
この業界で数々の人生模様を経験してからは人間的にもたくましくなり、
結果、人のわずかな可能性をも引き出して強みにするという独自性を
身につけました。
離婚したぐらいの時には「いつ死のうか、明日死のうか」等と自暴自棄になるような
病んだ発想も影を潜め、毎日が楽しくなってきました。
人生とは不思議なもので、楽しくなってきたら、
生徒さんの中から自主的に知人を紹介してくれる方が現れ始めました。
音楽だけではなく、
「研修講師として人前に立つ」ためのビジネスヴォイスを鍛えてほしいという
生徒さんが現れ始めたのもこの頃からです。
(このオファーが最終的に現在のヴォイスコーチ業へと発展しました)
こうして少しずつ、着実にお客様が増え、初心を忘れずに
丁寧にお仕事を続けることで信用を築いていったんです。
※生徒さんに人を紹介しろなんて強制してないですよ(笑)
また、良い流れは続いていくもので、
一連の活動を続けている中で現在の妻と出会い
再び幸せな結婚をすることが出来ました。
彼女の魂のコーチングのおかげで、
オペラ歌手としても再デビューを果たすことができました。
僕も今ではヴォイスコーチとして、たくさんのクライアント(生徒さん)に囲まれ、
僕が提供するサービスも、単なるヴォイストレーニングから
志や信念の声を言葉にのせる「ヴォイスコーチング」として進化を遂げてからは、
このお仕事の看板のみでも、食べていけるようになりました。
(今はクライアントさんからも妻からも何故か「隊長」って呼ばれてます。)
そして現在に至るといった感じですね。
2017年10月からは、ホンマルラジオのパーソナリティとして、
自分の番組を持つようになりました。(2022年7月現在、番組の更新はストップしております。)
業務自体は音楽から離れている業務もありますが、
僕は歌手は祖業だと思っているので、絶対にやめません。
(但し、オペラにこだわらず、どんなジャンルにもチャレンジしたいと思っています)
最近では、集合無意識覚醒プログラムMAGATAMAを勉強したもの同志で、古き日本の英知をお笑いミュージカルで現そう、という活動もしています。
つらつらと書き連ねましたが、決して自慢できる人生ではありませんね。
でも、良いと感じることも悪いと感じることも全て受け容れ、
まだまだ成長できると自負している僕が感じた全ての経験と知識を元に
クライアントの声や表現を現わし、結果を創ることで
皆さんがよりよい人生をすごしてくださる。
このことが、何にも変え難い、僕の生きがいとなっているのです。
最後までお読みくださいまして有難うございました。
沢山の感謝とともに。
2011年8月1日初稿
2017年9月29日更新
2022年7月26日最終更新